shantipapa’s blog

私の人生の記録です。節約、Apple、代替医療、瞑想など

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旅日記7 サールナート観光、そしてアーグラーへ向かう

3泊したバラナシも今日で最後。夕方6時15分の列車でアーグラーに向かう。 元旦の朝はものすごい霧だったが、今朝は霧も少なく空気が比較的澄んでいる。ガンガーでみる朝日ももう見納めだ。

朝ごはんはオムレツ、トーストにコーヒーを頼んだ。妻が「これって黄身をあえてのぞいてつくってるのかな?」と言った。そういえば確かに白っぽい。さっさく調べてみた。検索窓に「インド 卵」といれたら、サジェスト機能で、「インド 卵 白い」と出て来た。同じように調べる人が沢山いるのね。それでもってわかったことは、世界的には黄身は白っぽいほうが主流であり、日本の卵は餌にパプリカやマリーゴールドの粉末を混ぜ込み、黄身の色が濃くなるようにしているらしい。農協がつくった黄身の色見本があり、消費者のニーズに合わせて黄身の色を調整しているのだと知った。私達日本人にとっては、黄身がきちんと黄色いほうが美味しそうに見えるが、インドの人々からすると黄身があまり黄色いと身体に悪そうだと思われるらしい。そうだったのか。

朝ごはん後、荷物をパッキングした。このガンガービューの部屋とも、もう少しでお別れだ。ちょっと高かったけど、この部屋にして良かった。この部屋の思い出には腹痛の思い出ががっちり結びついている。いやぁ、それにしても…あれは痛かった。本当、冗談じゃないくらい。治って良かった。

まだチェックアウト時間まで少しあるので、荷物は部屋の中においたまま、ガンガーに散歩にでた。ケーダルシュワール・ゲストハウスに一番近いガートはチョーキー・ガート(Chauki Ghat)だが、ふだんはそこから北のダシャーシュワメード・ガート(Dashashwamedh Ghat)にむけて歩いていた。今朝はまだ歩いていない南側に向かってみた。

船を修理している人々がいた。遠くに浮かんでいると小さくみえる船も、岸にあげられてみると、結構大きい。

ダシャーシュワメート・ガートから離れれば離れるほど、人の数は少なくなり、落ち着いた雰囲気となってきた。今日は空気も澄んでいて、とても心地よい日の光が降り注いでくる。しばらく歩いていたら、積み上げられた薪と、立ちのぼる炎が見えてきた。火葬場だ。

バラナシには火葬場が二つあり、ひとつはダシャーシュワメートより北に位置するマニカルニカー・ガート。こちらはメインとなる火葬場で、一日中火葬の炎が絶えない。そしてもう一つの火葬場が、ダシャーシュワメート・ガートより10分ほど南に歩いたこのハリシュチャンドラ・ガートだ。

天候が良いこともあるだろうが、ハリシュチャンドラ・ガートの雰囲気は非常に開放的に見えた。火葬のすぐそばで若者達がクリケットをして楽しそうに遊んでいる。生と死が本当に隣り合わせで、それが当たり前となっている。遺体を焼く炎。若者たちの遊び声。そして仔犬が母犬の乳に群がっている。そんな景色が違和感なく溶け合っていた。

火葬場を後にした私達は宿に戻った。チェックアウトをしなくてはならない。夕方の列車まで時間があるので、バラナシ近郊のサールナートに観光に行くことにした。オートリクシャーの手配は宿でお願いした。

バラナシ市内からサールナートまではオートリクシャーで40分ほど。道は凸凹、埃もすごいが私はリクシャーでの移動が大好きだ。

途中ガソリンスタンドに寄ったので、給油しているシーンを撮影してみた。オートリクシャーって、とてもキュートだと思う。給油しているところも素敵だ。 結構燃料って高いんだなと思った。ガソリンだか軽油だかはわからないが、1リッター65.51ルピーとある。1ルピーが1.7円くらいなので、リッター110円ほど。日本とさほどかわらない?聞くところによると、近年のルピー下落により燃料代があがり、リクシャーワーラーの生活は厳しくなっているらしい。上の写真の奥の方が私達が乗るリクシャーの運転手さんだ。

サールナートの近くになると木々が少し多くなってきた。えんじ色の袈裟をまとったラマ僧(チベット仏教僧)が歩いている。地図を確認してみるとCentral University for Tibetan Studies(チベット研究中央大学)のところを走っていた。ここは仏教四大聖地のひとつ。悟りを開いた釈尊が始めて説法を行った地だ。

やがてリクシャーが駐車場にとまり、リクシャーワーラーが、「私はここで待っているから見学してこい」と言った。この人は宿に迎えに来てもらったときから、ほとんど喋らなかったのだが、結構流暢な英語の発音をしていた。

さて、ここからサールナート観光。まず入ったところは、 ムールガンダ・クティー寺院(Mulagandhakuti Vihara Temple)。スリランカ寺だ。 結構観光客が多い。私は自分が仏教徒のつもりなので、仏教寺院にインド人観光客が来ていることが、なんだか嬉しかったりする。

お寺の中は、ブッダの一生が描かれていた。 仏陀の誕生 修行中の仏陀スジャータ村の村娘から乳粥が供養される 様々な誘惑に打ち勝ち悟りをひらく仏陀 殺人鬼アングリマーラへの説法 仏陀入滅 あとから知ったのだが、この絵を描いたのは野生司香雪という戦前の日本人画家だった。野生司香雪は大正6年仏教美術研究のためにインドに渡り、昭和7年にこのムールガンダ・クティー寺院の壁画『釈尊一代記』の製作を依頼されたとのこと。素晴らしい偉業だ。(野生司香雪さんについては、こちらのページ詳しい)

初転法輪(Dhamma cakka ppavattana sutta)。釈尊が悟りを開いた後、ここサールナートで5人の修行僧(比丘)たちに初めて行った説法の内容が書かれていた。この石板に書かれているSADHU! SADHU!! SADHU!!! というのは「私は同意します」という意味で、インドでよく見かける修行者のサドゥーではない。

こ お寺の裏手にある鹿公園では、仏塔が遠くに見える原っぱで、インド人達がのんびりピクニックをしていて、こちらものんびり朗らかな気持ちになれた。

ダメーク・ストゥーパ(Dhamekh Stupa)はサールナートでもひときわ目立つ、高さ43メートルの仏塔だ。このダメーク・ストゥーパの場所こそ仏陀が最初に説法を行った場所だという。 釈尊の死後200年たち、古代インドのアショーカ王は仏教と出会った。そしてその教えに心をうたれて、武力による統治からダンマ(法・ダルマ)による統治へと移り変わっていった。そして初転法輪の地である、ここサールナートに仏塔を建立し、多数の僧侶が仏教を学べる大規模な僧院をここに建てた。現在のこっているダメーク・ストゥーパは6世紀に建て替えられたものだが、アショーカ王統治時代の遺跡群はいまでもここに残っている。

アショーカ王が国策として仏教を広めたのがおおきなきっかけとなり、仏教は南伝、北伝という形で他国に伝わり、世界に広まっていった。釈尊ももちろんであるが、アショーカ王も、後世にどれくらいのおおきな影響を残したのだろう。

ムールガンダ・クティー寺院の壁画を描いた野生司香雪のこと、そして仏教を保護した大王であるアショーカ王のこと。サールナートを訪れ、写真を撮っているときのは知らなかったことである。後に写真を整理し、旅の記録をこうして残す段階で、調べてわかったことが沢山ある。

旅をして、いままで見たことのない景色をみる。時に写真をとることもあるだどう。旅から帰って、写真を振り返ったときに、ぜひ訪れたその場所がどういう場所なのかを調べてみると良いと思う。何かの縁があり、そこを訪れたのだ。その場所のことをよりよく知ることにより、次回につながるかもしれない。もしかしたら人生がほんの少し豊かになるかもしれない。

旅を通じて感性を養い、経験から知恵を養う。そして調べることにより知識を養い、それらが私たちの個性を養っていく。そしていつか旅は終わり、帰るべき場所に帰らなくてはならない。旅の時間が非日常であるならば、また日常の生活に戻っていかなくてはならないのだ。私は欲張りだから、旅に出る前の自分より、旅から帰ってきた後の自分のほうが少しでも良くなっていたいと思っている。 ふと、サールナートの写真をみかえして、思い出を振り返り、旅に出てよかったなという想いが込み上げてきた。

こちらの仏像は顔が削られていた。12世紀のイスラム教侵攻により、多くの寺院が破壊され、たくさんの僧侶が殺されたのだという。偶像崇拝を禁じるイスラム教の教義により、仏像の顔は削りとられたのだろう。そっと手向けられたマリーゴールドの花が悲しげな美しさをかもしだしていた。

ダメーク・ストゥーパも十分に見て満足したので、立ち去ることにした。帰り際、お弁当を広げピクニックを楽しんでいる人たちに出会った。穏やかな空気が流れている。サールナートに来て良かったねと妻が言った。

もう2時をまわっていて、お昼ご飯をまだ食べてなかったので、だいぶお腹もすいた。沿道で見かけたスナック屋台で軽く食事をすることにした。 この写真はスナック屋台の裏側から撮ったもの。奥に座って食べられるテーブルが用意してあったので、ゆっくり食べることができる。プーリーとかパコラは美味しかったのだが、チョウメンはなんか不味かった。滅多にだされたものは残さないのだが、ごめん。このチョウメンは無理でした。

駐車場に戻り、私達を連れてきてくれたリクシャーに乗り込んだ。またお楽しみのリクシャータイムだ。Googleマップで、現在地を追跡しながら流れ行く風景を楽しむ。行きとは違うルートを走っていた。すこしスラムっぽい雰囲気を感じ、しばらくすると巨大なゴミ捨て場が見えた。ビニールごみの量がすごい。残念ながらその写真はとれなかったが、豚たちがゴミの中から食べられそうなものはないか漁っている写真がとれた。

ふとニューデリー駅でみた看板を思い出した。 DESTROYING natute today, Disastrous FUTURE someday
ゴミ問題は大きな社会問題なのだろう。12億以上の人口を抱えるインド。発展しつつある経済。工業製品が溢れるにつれ、ごみの量も多くなってくる。ちょっと失礼な言い方をすれば、『分別せずに何もかもそこらに捨てるのが当たり前』というのがインド式だろう。当たり前なのだから、みんな直そうとしない。持続的かつ健全な経済発展のためには、教育こそ大切なのだろうと感じた。子供の頃から国を挙げてゴミのことを教えて考えさせていかないと、今後この国や世界はどうなっていってしまうのだろう。生分解しないゴミ。蓄積していく化学物質汚染。内分泌撹乱物質。そんなことをすこし考えさせられた。 (HUFFPOSTがこのインドのごみ問題について触れていた)

バラナシに戻った私達は、そのままガンガーを見に行った。これでガンガーも見納めだ。

人も動物も隣り合わせに存在するインド。そしてガンガー。私はこんな場所が好きだ。またいつかここに来たいと思う。アンジェロにも会いに来よう。

前回来た時も、今回も。私はガンガーで沐浴はしなかった。アンジェロにガンガーで沐浴はしたのか?と聞かれたときに、私は「していない」と答えた。するとアンジェロは「not yet」とつぶやいたのが印象に残っている。そう。私にとっては、「今はまだ」。いつかの楽しみに残しておこう。

ケーダルシュワール・ゲストハウスのミントゥさんが、沐浴をしなくても、頭にガンガーの水を少しふりかけるだけで清められるよ。と教えてくれていたので、私と妻は、最後にガンガーの水をお互いの頭にかけあった。

ガンガーを後にして、ケーダルシュワールの皆さんにご挨拶をした。さて、アーグラーに向けて出発だ。 通りにでて、オートリクシャーをつかまえてバラナシ・カント駅へと到着した。

私達の乗る列車は、14863 Marudhar Express。電光掲示板をみるとプラットフォーム9番から出発するようだ。A/Dというのは、Aはarrival 到着。Dはdeparture 出発だが、その駅が始発という意味だ。Marudhar Expreeはバラナシが始発なので、もうすでにプラットフォームに停車していた。

インドの寝台列車は予約した車両の入り口に乗客リストが貼ってあるのだが、自分の名前があるかどうか不安になる。ちゃんと私達の名前をみつけて一安心。時間ぎりぎりにいくと、かなり焦るので、時間の余裕をもって駅にいくと良いと思う。

前回、デリーからバラナシに来た時に乗った車両は1st AC (一等寝台) だったので、広々と快適だったが、今回は AC 3-Tier Sleeperというクラスで、三等寝台にあたる車両だ。ベットも三段となり少し窮屈だが、この窮屈さも旅の醍醐味かもしれない。

妻は三段ベッドの上段、私は中段だったのだが、列車の出発時には中段のベットは上げてあり下段に座れるようになっている。私はサールナート観光などもあり疲れていて座りながらうとうとしていたら、下段ベットのインド人女性が、気を使ってくれ「もう眠りたいか?」と聞いてくれた。ありがとう。

三段ベットをつくり、私達は早々に眠りについた。

「明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげなさい」

私のマインドフルネスの先生が紹介してくれた本 「明日この世を去るとしても、今日の花に水をあげなさい」を読んでみたくなり、注文をしました。 がん患者に向けた本であるが、私達が一日一日を大切にいきていくのに大切な気づきがたくさん得られそうな本だと思い、読んでみようと思いました。

いろいろ思い悩むこともありながらも、毎日を生きていく。 本を読み終わったら、また感想など書きたいと思います。

妻の誕生日プレゼントにMacBookを贈りました

昨年の秋からブログを始めて、数ヶ月。記事数もPVも少ないですが、楽しみながら続けています。 書きたいことはたくさんあり、主に行き帰りの通勤時間を使って記事を書いています。

ブログを書くこと、その意味、意義。 妻には話しても、きっとあまり理解されないだろうと思い、話題にすることはあまりありませんでした。

先日、ちょっとした喧嘩をしました。ブログの記事を書くために上海のことについて調べていたときのことです。iPhoneでもしかしたら、こそこそと誰かと連絡をとっているのかもという不安がほんの少し浮かんだようです。

私は妻にちゃんと話をしました。自分がどのような考えでブログを始めたか。それを続けようとしているか。

翌日になり、妻と仲直りしました。そして、妻が言いました。「私もブログを始めてみようかな」 私達は昨年、2015年の秋に結婚をしました。その時のこと、特に都民共済を使って節約できるところは節約しながらも、お金をかけるべきところにはかける。そんな私達が行った結婚式のことを記事にしたいそうです。

それを聞いて、私も嬉しく思いました。 先日、妻の誕生日がありました。 私はプレゼントを2つ用意しました。 ひとつは、妻が欲しがっていたアクセサリーケース。高島屋で購入しました。

もう1つのサプライズで、MacBookを用意しました。妻がブログを始めて、自分を表現していく気持ちを応援したかったからです。

いままで、妻がパソコンを使った作業が必要なときには、私のお古のMacBook Airを貸していました。自由に使っていいよと言っても、自分のパソコンではないという思いは消えないので、日常で使うことはほとんどありませんでした。だから、妻専用のパソコンを用意してあげたいと思いました。

妻のiPhoneと同じ色のスペースグレイのMacBookを選びました。とことん使い倒してほしいから、3年保証のAppleCareもつけました。

私は私の。妻は妻の。 思ったこと、感じたことを、このネットの世界に刻んでいけたらと思います。いつか、もしかしたら、どこかのだれかの役にたつかもしれない。なにかいいことがあるかもしれない。

同じ方向を目指して共に歩んでいけることは、嬉しいことです。

旅日記6 バラナシ3日目 アンジェロ宅訪問

昨晩のかなりひどかった腹痛も、薬を飲んで寝たら、朝にはだいぶよくなっていた。発熱も下がったようだ。長引いたり、重症化しなくて良かった。

夕方から横になっていたので、身体のあちこちが固まってしまっている。私はガンガーが眺められるバルコニーにでて、固くなった身体をほぐすように動いたり、伸ばしたりした。

そうだ。太極拳をしてみよう。ガンガーを見ながら心を静め、両の脚を肩幅くらいに開く。重心をやや落とす。余分な力を抜く。起勢。

無為寺で習った太極拳も、日本で習った双辺も套路は忘れてしまった。でも、太極拳的な身体の動きは身体が覚えている。動きを思い出しながら、身体が動くままに動かしてみた。昔、旅をしながら毎日行っていた太極拳

無為寺で太極拳を修行した経験は、私の人生にかなりの変化を及ぼしたと思う。私は太極拳の魅力に魅せられた。お寺での生活の中、自分の内に力が湧いてくる感覚を実感として感じられた。そんな経験がきっかけとなり、自分を元気にすること、そして人を元気にすること。そんなことを追求するようになり、手技療法の世界に入っていった。太極拳はもう何年も前にやめてしまったけど、手技療法はプロとなり、いまでも追求を続けている。

私は再び太極拳をやってみたいと、このとき強く思った。つぎに習うとしたら、一番メジャーな陽式がいいかな。時間はかかるだろうけど、きちんと修めて人に指導できるくらいになりたい。手技療法と瞑想、そして太極拳。そんな世界を融合していくのが私の夢だ。

ケーダルシュワールは、Bed and Breakfast、つまり朝食付きゲストハウスだ。朝ごはんは妻も私もバナナパンケーキを頼んでみた。インドのパンケーキは日本でいうクレープに近いもののようだ。なかにバナナがどっさり入っていて、たっぷりのハチミツをかけて食べた。昨晩の腹痛のこともあるので、慎重に良く噛んでゆっくりと食べた。

朝食を食べて、しばらくしてもお腹の具合は落ち着いている。どうやら大丈夫そうだ。私はアンジェロに電話をかけた。昨日、せっかく自宅に招いてもらったのに、突然の腹痛で行けなくなってしまった。今日はもう大丈夫になったので、ぜひ伺いたいと伝えた。アンジェロは快く承諾してくれ、今晩のアンジェロ家訪問が決まった。

今日はあまり積極的な観光はせず、のんびり過ごすことにした。午前中は部屋のなかで音楽を聴いたり、バルコニーでガンガーを眺めたりしていた。妻は両親にAirmailを書いていた。 私はその間、小沢健二の「僕らが旅にでる理由」を何度かリピートして聴いた。

そして毎日はつづいてく 丘を越え僕たちは歩く
美しい星におとずれた夕暮れ時の瞬間
せつなくてせつなくて胸が痛むほど

この曲のこのフレーズが好きだ。17年前、私は大阪発の船に乗り、上海へと降り立った。そして陸路を西へ西へ、チベットを超え、ネパール。インド、パキスタン、トルコとアジアを横断した。西へ西へ移動していたので、太陽の沈む方向に向かうことが多かった。インドやパキスタンでは日本ではあまり見られない地平線に沈む太陽を見られる場所が多い。あれはパキスタンでバスに乗っていた時だった。ものすごく大きな夕日にむけてバスは走っていた。いつか自分に子供ができたとき。世の中にはこんな大きな夕日があるんだということを見せてあげたいと思った。そんな懐かしい想い出を振り返りながら、オザケンを聴いていた。しみじみと。何度もリピートして聴いていたら、妻に「この曲聴きすぎて飽きたんだけど」と言われてしまった。

お昼前くらいに、私達は街に散歩にでた。まずは郵便局に行き、妻が先程バルコニーで書いた手紙を投函した。 ベンガリートラ・ロードを歩き、ダシャーシュワメート・ガートへと出た。ガンガーを眺めていると、心がすっと落ち着いてくる。それはこのバラナシが特別な場所だからであろうか。それとも、単にそういう風に感じたがっているだけであろうか。わからない。でも、心が静かになっていくのを感じる。

少しお腹がすいてきたので、バラナシでも評判の良いドーサ・カフェというお店に行ってみることにした。妻は、私が昨晩あんなにお腹が痛くて苦しんでいたのに、スパイシーなインド料理を食べて大丈夫?と心配していたが、スパイシーなソースをあまりつけなければ大丈夫だろう。ただ、食堂の生水だけは飲まないようにしようと心に誓った。

注文したのは クリーミーマッシュルームドーサと トマトオニオンウタッパム

このお店は使う油にもこだわっていて、油を大豆油、バター、ギー、オリーブオイルの中から選ぶことができる。私達はギーを選択した。ギーとは発酵無塩バターを煮詰めて水分やタンパク質を取り除いてできる油で、独特の風味がありインド料理には欠かせない存在。料理はもちろん、アーユルヴェーダや宗教儀式でも使われる。

食べてみると、重ったるい油っぽさはなく、風味豊かでとても美味しい。評判のお店であることも頷ける。

さて、また現地SIMの話をしよう。このDosa Cafeはトリップアドバイザーで見つけたお店だ。宿やCafeではWifiが使えることもあるが、接続がわるかったり、速度が遅かったりすることも多々ある。SIMフリー機に現地SIMであるAirtelのSIMを刺すことにより、いつでも何処でも地図をみたり、ルート検索したり、良いお店を調べたりできる。もちろん街を歩いて、自分の直感に基づいて美味しいお店を探すのも良いだろう。歩いて歩いてお店を選び、頼んだ料理がとても美味しかったとき、喜びが脊髄を駆け上るような感覚。素敵なことだ。

だが、私はこの旅行を通して、現地SIMを購入し、手持ちのiPhoneで使うことへの利便性に酔いしれていた。日本の普段の生活では当たり前のことだ。モバイルでネットにアクセスすることなんて、もはや本を読むことよりみんなが行っている。だが、海外を旅する環境においては、その当たり前が失われる。その不便さのなかで楽しむことに意義を見出すこともできるかもしれない。だがかつてのバックパッカー経験と比較して、旅先でiPhoneがそのまま使えるのはつくづく便利だと思う。あとは使いようだ。

旅にでてまでiPhoneばっかりなのもどうかと思う。なので、私はマインドフルネスをお勧めする。ふとしたときに、iPhoneを見るのをやめ、思考もとめ、今の瞬間を感じる。そのままを観て、そのままを聴く。そうすると、本当の今がだんだん見えてくるように思える。私たちはふだん、過去のことを思い出してばっかりいるか、未来のことを妄想しているばかりで、本当の今から心が離れていることが多いと思う。呼吸を感じ、今にこころを向けると、美しいものがより美しく見えてくる気がする。

SIMの話からマインドフルネスの話になってしまった。アンジェロとの奇跡的な再会をしたからか。いろいろなことを思い出し、考えが浮かんできた。思考にとらわれ始めていることを知り、思考を手離す。クリーミーマッシュルーム・ドーサの味に集中をしよう。

ドーサ・カフェをでた私達は、ベンガリートラ・ロードを歩き、宿へと向かった。帰り際、妻は目にはいったお気に入りのデザインのワンピースを購入。インド人の旦那さんと日本人の奥さんが経営するお店で、日本人相手だと値段交渉はしにくかったらしい。下の写真はここのお店のご主人と近所のおじいさん。おじいさんがとっても良い笑顔で赤ちゃんに話しかけていた。

宿に戻ると、オーナーのミントゥさんがいたので、昨晩お世話になったお礼を言っておいた。ミントゥさんが日本語を話せるおかげで、医者にも症状を的確に伝えることができたし、なにより妻にとって心強かったであろう。

その後は、夜からのアンジェロ家訪問まで、のんびりと過ごして体力を温存した。

日も暮れ、私達は外に出てオートリクシャーをつかまえて、アンジェロの家に行った。リクシャワーラーは指定した場所をよくわかっていなかったので、私がiPhoneのグーグルマップをみながら曲がり角を指示した。アンジェロに聞いた住所は集合住宅が多く、どの建物かわからなかったのだが、電話したらすぐにでてきてくれた。何度も言うが、海外で普通に携帯やマップなどが使えるのは便利だ。

アンジェロ家はアンジェロ、奥さん、男の子と女の子の4人家族だ。アンジェロはフランス人、奥さんは中国人、子供達はここバラナシでインドのローカルスクールに通っている。なのでヒンディー語も子供達は話せる。通常アンジェロと奥さんは中国語で話をしている。つまり、フランス語、中国語、英語、ヒンディー語と4ヶ国語が日常的な生活で使われている。 おまけに奥さんは昔北京で日本人ツアーのガイドもしていたとのことで、日本語の日常会話もできる。すごいことだ。

子供達もとても聡明そうだ。遊びも五感をつかった自由な遊びを楽しんでいる。ドミノ倒し、工具をつかった工作のおもちゃ、神経衰弱、ボード型ビリヤードなど。ここにはテレビゲームもないし、スマートフォンで子供があそぶこともない。良い子育てをしていると感じた。とても素敵なエネルギーに満ちた家族だ。

私達はいろんな話をした。無為寺の話、その後の人生の話。これからのこと。いろんなこと。 それぞれの人生の中で、たまたま巡り合わせがかさなり、タイミングがあい、雲南省のお寺へと向かった。 そこで、同じ景色をみて、同じ飯をたべ、修行をした。

そして、寺を降りて、またそれぞれの人生をそれぞれで進んでいった。そしていま、また波長がシンクロし、再会を果たした。15年という時の流れは、ごく短いようにも思える。その間にもいろんなことがあった。でもアンジェロとの関係性においては、あっという間なのかもしれない。魂のレベルでは、私達は時空を超えてつながっているのかもしれない。

いまの段階でわかるのは、そんな考えも妄想にすぎず、なにが本当なのかもわからない。ただ、この旅を通じて、アンジェロに再会できたという事実。そのことに心から感謝したい。

またバラナシに来る。奥さんや子供達に再会を誓い、私達はアンジェロ家を後にした。アンジェロは通りまで私達を見送ってくれた。

最後にホットミルクを一杯のんだ。カルダモンとともに煮詰めたミルクはとても濃厚で美味しかった。私は最後にアンジェロとハグをした。

私達はオートリクシャーに乗り込み、アンジェロは家族のまつ家にもどっていった。

日本での日常。いろんな人間関係。そんななかで少し見失いかけていた大切なものを取り戻すことができたような気がする。 また、ここにこよう。大切な友と会うために。 私が私であるために

旅の一枚 上海のシンボル 東方テレビ塔と陸家嘴

上海の中心部を流れる黄浦江を境に、上海市は浦西と浦東にわかれています。上海の町を彩る西洋風の古建築がならぶ外灘地区は浦西にあります。

黄浦江を望む外灘地区の遊歩道は上海屈指の観光名所で、外国人はもちろん、たくさんの中国国内の観光客でにぎわってます。結婚写真をここで撮影するのがブームのようで、ウェディングドレスで着飾った花嫁花婿がポーズを決めて写真撮影している様子をよく見かけました。

写真はこの外灘から河の対岸をみた風景です。「陸家嘴」という地区で、上海のみならず中国の金融中心となる地区です。写真左寄りに見えるひときわ異彩を放つ塔は高さ486mの東方テレビタワー(東方明珠電視塔)です。492mの上海环球金融中心、421m金茂大厦など、超高層ビルが建ち並ぶ風景は、発展をつづけ激変する上海を象徴する風景となっています。

それにしても、このテレビ塔。近未来的であるが、ちょっと間の抜けたデザイン。愛すべき存在です。完成したのは1994年11月。もう二十歳超えたんですね。

旅の一枚 上海 怡和洋行大楼

上海の黄浦江西岸を走る中山東一路沿いは外灘(Wàitān)と呼ばれ、19世紀後半から20世紀前半にかけての古い西洋式の建築が並んでいます。

写真の建物は怡和洋行大楼といいます。怡和洋行はイギリスのジャーディン・マセソン(Jardine Matheson)というイギリス系の国際企業で、もともとは東インド会社を前身とする貿易商社でした。

アヘンと茶の貿易により莫大な利益を上げたジャーディン・マセソンは、1840年から行われたアヘン戦争に深く関わっています。

清国にアヘンが蔓延し、人民の風紀が退廃し、またアヘンの購入に銀が使われ、国内で流通する銀保有量が激減しました。 清朝政府はアヘン禁止令を強化し、アヘンの輸入を規制しようとした際に、ジャーディン・マセソンはイギリス国会のロビー活動を行い、イギリス軍派遣決定に大きな影響を与えアヘン戦争が勃発しました。

2年におよぶアヘン戦争に負けた清国は1842年8月29日、不平等な南京条約に調印し上海を自由貿易港として開港しました。その後、この外灘地区は100年続いた上海共同租界の中心地区として栄え、西洋式の建物が建てられていきました。

何気なく撮影した、この一枚。この立派な建物はなんの建物だろうと調べ始めたことがきっかけで、アヘン戦争のことや上海の歴史の一部を垣間見ました。

そして、いま。時代は変わり、かつての西洋列強の中心で覇権国家であったイギリスは中国に列車や原発建設の支援を求めるようになりました。

驕れる者久しからず
ただ春の夜の夢の如し

旅日記5 新年のバラナシ。古い友との再会と激しい腹痛

2016年。新しい年の幕開け。 初日の出を拝みに行こうとガンガー沿いのガートへ来てみたが、朝靄がすごすぎて何も見えない。インドの列車は遅れるのが当たり前なくらいよく遅れるが、それは霧のせいだと宿のオーナーが言っていた。特に今の時期が一番霧が出やすいのだという。 さすがに、この霧だったら列車も遅れるなと思った。 ダシャーシュワメート・ガートも霧で覆われているが、人は多かった。ここで朝のチャイを一杯。

写真は妻です。2016年の幕開け。彼女はガンガーを前にどんなことを想いながらチャイを飲んでいたのだろうか。

やがて、8時を過ぎたころ、霧の向こうに太陽が見えてきた。その太陽はくすんだオレンジ色をしていて、まぶしくなかった。バラナシのガートから見る対岸は砂浜があるのみで建物などは一切ない。黄泉の国に相当するものだという。なにもない対岸の上に存在するまぶしくない太陽は、私に心の奥底で不安さを少し呼び起こすような感覚を引き起こした。

このあと、火葬場があるマニカルニカー・ガートへと足を運んでみることにした。マニカルニカー・ガート手前のあたりで、インド人がこの先の火葬場は撮影禁止だと注意を促してきた。はい。わかってます。と一眼レフをバックにしまった。そのインド人は私達と一緒に歩き、いろいろ説明をしてきた。遺体を荼毘に付すのに用いる薪の話がでてきたときに、やはり来たかと思った。このマニカルニカー・ガートは勝手にガイドをはじめ、薪代を請求してくる事例がとても多いことを予めネットや地球の歩き方などで知っていた。私達は相手にせずに、火葬場に近づきすぎず、少し遠巻きに立ち上る炎を眺めていた。

しばらくして、別のインド人がやってきて、また勝手ガイドを始めた。今度は話すときにこちらに目をあわせず、耳元で不気味な話し方をする初老の人だった。近くの建物を指差し、あそこのホスピスには死を待つ者が大勢いる。彼らはここバラナシに死ぬために来たのだ。ホスピスの中を見学したいか?一人の死体を焼くのにどれくらいの薪の量が必要か。いったいどれくらいの薪代が必要か。貧しい者は薪代を払うことができない。あなたのカルマのために、薪代を払ってほしい。そんなことを耳元で囁いてくる。相手の表情をみても視線はそらしたままだ。立ち上がる炎のほうをずっとみている。私はその男性が瞳孔が横にのびた不吉な山羊のように見えた。勝手ガイドに霹靂としてきて、妻もここを立ち去りたがっていたので、その男性を無視して、マニカルニカー・ガートを後にすることにした。立ち去る私達の後ろで、No good karmaだ。と男性が叫んでいた。

このようなことは、ここインドではよくあることだ。断るときははっきり断る。嫌だな、オカシイなという雰囲気を感じたら速やかに立ち去る。これがトラブルに巻き込まれないための第一条件だろう。

だからといって、話しかけてくる人を全て無視したり追い返しても旅は面白くない。気持ちがギスギスしてくるし、だんだん惨めな気持ちにもなってくる。できたらお土産を買ってもらいたい、ガイド料をもらえたら嬉しいと考えながらも、基本的には旅行者と話しがしたいだけ。日本人と沢山話して日本語がもっと上手くなりたいだけと思っているインド人も多い。

私は、観光客を狙うようなインド人でも、挨拶してくれたら挨拶で返し、話しかけられたら基本的に答えるようにしている。現地の人との会話は避けずにたのしみつつ、断るときははっきりと。嫌なときにはさっさと立ち去る。そんなスタイルで旅をしている。

バクシーシ(喜捨・施し)についての私の考え、スタンスも良い機会なので記したいと思う。私にとってバックパッカーのスタイルで旅をするのは15年ぶりだ。かつての旅で私はいろいろなことを学び、経験し、そんなひとつひとつの出来事が、今の私の一部となっている。今回の妻とともに訪れたインド新婚旅行だが、私にとってはインドという国に対しての恩返しの意味も少しある。なので、バクシーシを要求された場合は、多少積極的に施しを行うようにしている。もちろん、要求されたら無条件で渡すことはしない。何かしらの心動かされるものが感じられた場合にバクシーシを手渡す。バクシーシを渡すのに財布を出すのは嫌なので、10rs札をなるべくズボンのポケットに用意するようにしている。

また、バクシーシを渡したくない時、もしくはしつこい客引きなどを断る時に有効なのが、合掌だ。心静かに合掌して少し頭をさげると、不思議と諦めて帰ってくれる。これはぜひ試してほしい。

さて、マニカルニカー・ガートを後にした私達は、旧市街の狭い路地を歩き、ゴールデン・テンプルのほうへと行ってみた。ゴールデン・テンプルはバラナシの信仰の中心となるお寺で、ものすごい長蛇の行列ができていた。そうだ。今日は1月1日、元旦だ。インドに暮らす人々の初詣なのだ。かつてゴールデン・テンプルは外国人は入れなかったのだが、現在では、仏教徒の日本人はゴールデン・テンプルに入ることができる。仏教はヒンドゥー教の一流派であると見なされているとのこと。だが、あまりの長蛇の列に、ゴールデン・テンプル参拝は諦めた。またいつか機会があるだろう。

今日はクリシュナ・ゲストハウスからケーダルシュワール・ゲストハウスに部屋を移動しなくてはならないので、朝の散歩はこれくらいにして、宿に戻ることにした。帰り道、インドのモディ首相と安倍首相が写った看板を目にした。2014年にモディ首相が訪日した時には京都を案内したとのこと。そして今回、私達がバラナシを訪れる少し前に安倍首相がモディ首相の故郷でもあるバラナシを訪問したとのこと。私の大好きなインドと日本の関係が良くなることは、とても嬉しいことだ。

宿の近くに野菜の露天商が集まっているエリアがある。長期滞在できるなら、野菜や果物を買い込んで料理すると楽しそうだなと思った。今は日本で仕事があるので、そういうことはできないけど、日本ではないどこかで生きていく選択肢も悪くないかもしれない。

さて、宿に戻った。手早くパッキングを済ませて、ケーダルシュワール・ゲストハウスへと移動した。楽しみにしていたガンガービューの部屋だ。めったに使わないiPhoneのパノラマ撮影モードでバルコニーからの写真を撮ってみた。少し値段は張るけど、せっかくのインド旅行。限られた時間を楽しみたいのでこの部屋に泊まることにした。なにしろこれは、新婚旅行でもあるのだ。

1時間ほど、気持ちの良いバルコニーでガンガーを眺めながらぼぉ〜っとして過ごした。私は日本ではコーラやファンタなどあまり飲まないが、インドのLimca(リムカ)はなぜか大好きだ。このちょっと強めの炭酸と甘すぎないレモン風味がたまらなくうまい。ガンガーをのんびり眺めながら飲むリムカはまた格別だ。炭酸飲料1本でこんなに幸せな気持ちにさせてくれるのもまた、ガンガー効果だろう。

お昼も過ぎた頃、散歩がてらにアッシー・ガート近くにあるオープンハンド(Open Hand)というカフェ兼お土産物屋に行ってみることにした。途中、HAPPY NEW YEAR 2016と書かれたオートリクシャーを発見。なんとも微笑ましく可愛い。

オープンハンドはバラナシの中でもすこし離れた地区にあるが、iPhoneにインド現地のAirtel SIMを刺しているので、問題なくグーグル・マップが使える。昔は紙の地図を片手に歩いたものだが、なんとも便利になったものだ。途中いくつかの雑貨屋などにも立ち寄り、目指すオープンハンドの前まで到着したのだが、今日はまだお昼ご飯を食べてない。先にご飯を食べようということになった。

オープンハンドもカフェなので、食事をすることもできるが、妻がローカルフード食べたいと言った。この言葉は私にとってもなんとも嬉しい一言だ。私達は近所のローカル食堂を探すことにした。周囲を歩いてみたところ、考えていたよりすこしばかり高そうだが、Shiva Restaurantというインド料理屋があったので、そこで食事をすることにした。

私も妻もターリーを注文し、食事が来るのを待っていたときに、西洋人から声をかけられた。 「エクスキューズミー。もしかして、あなたは昔、中国のお寺にいませんでしたか?」

「アンジェロ!?」 突然の出来事だった。私は昔、中国雲南省大理にある無為寺というお寺で2ヶ月住込みで太極拳をならったことがある。それは私の人生に大きな変化を及ぼした経験だった。そしてアンジェロは無為寺で共に太極拳を修行した友だ。もう15年前の話だ。 なんという偶然であろうか。15年という歳月を経て、ここバラナシで。この時間にこの場所まで歩いて来て。たまたま見かけた食堂に入った。 妻がローカルフードが食べたいと言わなければ。きっとこの再会はなかったであろう。 偶然とは思えない偶然の一致。インドという国を覆う何かしらの力。インドの神様か何かが微笑んで祝福してくれているような気がした。

アンジェロはここバラナシで暮していて、もう二年以上たつらしい。無為寺での修行をきっかけとして、彼は太極拳や中国文化に強く魅かれ、中国に留学をした。そしてさらに語学や武術などを学び、中国の女性と結婚をした。ラモさんというとても素敵な女性だ。気功・太極拳の先生とのことだ。

私はアンジェロに、無為寺の後で旅にでたのは初めてなこと。今の仕事のこと。結婚して新婚旅行でインドに来たこと。昔の仲間のことなど。短い時間でいろいろな話をした。バラナシでのこの後の予定を聴かれたので、特にないことを伝えたら、是非うちで食事をしようとお誘いを頂いた。とても嬉しい。 早速、今日の7時にアンジェロのお家に訪問することが決まった。アドレスと電話番号を教えてもらい、お互いまだ食事の途中だったので、それぞれのテーブルで食事の続きをした。また夜にと、アンジェロ一家はレストランを後にした。アンジェロが店を出た後も、しばし興奮は続いていた。

その後、私達もレストランを後にして、ここまで来た目的であったオープンハンドに行ってみた。ここは靴を脱いであがるタイプのカフェで、店内では多くの西洋人がくつろいでカフェやスイーツを楽しんだり、読者をしたりしていた。デザインの良いインド製の衣服や雑貨なども取り揃えてある。私は特に購入したものはなかったが、妻はスカーフを一枚購入した。 妻は少しお買い物モードに火がついたようで、ここまで来るときに少し立ち寄った雑貨屋に再びもどり、ポシェットもご購入。もちろん値段交渉もしました。させました。最初の言い値の1/3くらいまで値切って交渉成立になったのだが、それでもまだボラれているんだろうな。でも、妻がその値段で納得して交渉が成立するのだから、もはやその値段はボる、ボラれるではないのかもしれない。お店のにいちゃんはニヤニヤしてた。よい感じのツーリストプライスで売れたんだろう。こうして値段交渉することも旅の良い思い出だ。

買い物も終わり、満足した私達はサイクルリクシャーを使って宿の近くまで戻った。オートリクシャーも好きだが、私はサイクルリクシャーのこのゆったりとした感じがたまらなく好きだ。

ケーダルシュワール・ゲストハウスに戻った私達は、今晩のアンジェロ宅訪問まで、少しのんびりと過ごすことにした。

・・・ 少しお腹が痛くなってきた。トイレに行ったのだか、すっきりとでない。少ししたら治るかもしれない。ベットで休むが、しばらくするとまたお腹が痛くなってくる。三度、四度とトイレへと行くが、やはりすっきりと出ない。しぶり腹(裏急後重)という症状に近い。もしかしたら赤痢かもしれない。そんな不安が横切る。細菌性赤痢の特徴である血便はでないので、大丈夫であろうと信じたいところだが、腹痛は治らない。腹痛に伴い、吐き気ももよおしてきた。

これはちょっとまずいかもしれない。仰向けに寝てると腹痛がますので、うつ伏せや横向きに丸まって寝るほうがほんの少し腹痛がやわらぐ。寄せては返す波のように、腹痛がやってきて、トイレに行く。少し落ち着いて横になる。そしてまた腹痛がやってくる。

これは、もうアンジェロ宅に行くのは無理だ。そう決断し、アンジェロに電話をした。レストランをでたあとに宿に戻ってから激しい腹痛が始まったので今日は行けなくなったとお断りの連絡をいれた。

自分でお腹を押してみる。押しても痛みはない。お腹を押して、離すときに痛みが増すようであれば、腹膜炎の症状であるので一刻も早く病院に行かなくてはならない。でも、今のところ腹膜炎の症状はなさそうだ。赤痢の症状とされる粘血便もない。でも、もはや様子見だけでは解決しないところまで来てしまった気がする。きっと大丈夫であろうという希望的観測を重ねても今ある症状は改善することはない。

妻に頼んで、医者の手配をお願した。ケーダルシュワール・ゲストハウスのオーナーであるミントゥさんは、日本語がとても流暢なので、こういうトラブルのときには本当に助かる。近所の医師はお正月休暇で留守にしているので、少し離れた所の医師を手配してくれた。少し時間がかかるとの事。

医師を待つ間も、周期的に腹痛が襲ってくる。何度トイレにいっただろう。寒気もでてきた。とても寒い。毛布に包まって、海老のように丸まって耐えた。ここまでお腹が痛くなったのは、高校生のときの虫垂炎いらいだ。寒気がするのは発熱が始まったからであろう。意識が少しぼーっとしてきて、うとうとしても、しばらくすると腹痛がやってきて起こされる。時間がたつのがとても遅い。

基本的に同じものを食べている妻は平気だ。違うことといえば。食堂にある生水を飲んだことだろうか。俺はインド経験者だから大丈夫なんていう根拠のない甘い考えがあった。多少の菌を入れて身体を慣らしたほうがいいとか、腸内細菌のレパートリーを増やすなどと冗談交じりにそんなことも言ったりしていた。でも、それは間違いであった。インドをなめていた。やはり水は気をつけなくてはならなかった。どうか、何かのご縁でこの記事を読んで、これからインドに行く方がいらっしゃいましたら、どうか生水には気をつけてください。

やがて、医師が往診に来てくれた。ミントゥさんが私の言う症状をヒンディー語に訳して医師に伝えてくれた。脈や血圧をはかり、お腹の触診をしてもらった。押しても痛い所はないが、腹痛は激しいし、もはやトイレには20回くらいいっているだろう。

入院が必要かもしれないと言われた。薬を飲んで、一晩ここで様子をみることもできるし、今から入院することもできる。どちらにするかと。判断は私次第だと。

妻は、入院しておいでと言っていたが、ここで入院をしたら、いろいろな予定が崩れていってしまう気がした。粘血便や反跳痛(お腹を押して、離すときに痛みが増すこと)の兆候がないことから、私は入院はせず、ここで一晩様子をみる選択をした。

医師が処方箋を書いてくれた。妻に往診料を手渡してもらった。その医師はガンガーをしばし眺めた後に帰っていった。物静かな感じの良い医師だった。その後、妻がミントゥさんに付き添ってもらい、処方箋をもって薬を買いに行ってくれた。

3種類の薬が処方された。痛み止め、下痢止め、吐き気止めらしい。薬を服用した。

下痢をした時に役立つかもしれないからと、妻はポカリスエットの粉末を持ってきていた。ミネラルウォーターに混ぜてポカリを作ってくれた。

薬が効いていたのだろうか。腹痛の症状は治まってきた。そのまま私は眠りにはいった。

夜中に何度か起きたが、腹痛は再発することはなかった。ポカリスエットで水分補給をして、再び眠りにつく。妻に迷惑をかけたという気持ちとともに、感謝の気持ちが生じた。私とともにいてくれて、ありがとう。